〈碑文のあらまし〉
仏教に帰依する者は金銀を施して、寺院を造立し、堂塔を修理し、それを功徳とする。仏の道を知らずして造寺修塔を知らない者には功徳はないのであろうか。
そんなことはない。厳島の誓真大徳は、みんなに竹木で器具を造ることを教え、島の人たちが生活できるようにし、井戸を掘り町並みを整えて賑わいをもたらし、神社の霊験を高めた。この功徳は、造寺修塔に倍するものである。
大徳は、姓を村上氏といい、伊予務司城主村上頼冬を先祖とし、家族に理解を得られないまま、広島大工町で米穀商を営んでいた。ある夜、婦人がやっき来て、衣服をもって米に代えてくれるように頼んだ。その衣類を確かめてみるとまだ温かさが残っている。その理由を聞くと、明朝炊く米がなく、子どもの眠っているのを見計らって着ている衣類をはぎとって来たという。大徳は、世情がひどく冷酷になり、子どもや女性がこのように生きているのを哀れみ悼んで、衣服を返し米を与えた。そしてその夜秘かに家を出て厳島に渡り、光明院の了単上人のもとで得度した。時に25歳であった。
神泉寺に住んで修行を重ねていた。大徳は匠の心得があり創意工夫にとみ、彫刻が得意で、作った木魚は音の響きがよく、自ずと人々の知るところとなった。また、厳島は霊験あらたかな神社があり、名勝地であったが、平地が狭く町の人たちの生活は成り立ちにくかった。そこで、大徳は人々に山に入って木を採り、柄杓・箱・茶道具・酒器などを作ることを教えた。それらは、店に並ぶと男女を問わず来遊する人たちの目を眩まし、みんなその技巧の細やかなことを悦び、争って買って帰り、進物にしていた。こうして厳島細工が広く知れわたるようになり、1100戸の人たちは機織りや耕作をしなくても生活が豊かになった。
また島は飲料水に乏しかった。井戸を掘るには巨額の費用が必要であったが、各戸から喜捨を乞い、その経費に充てるべく、毎日托鉢して回った。町の人たちもその誠意に感心し、蓄えを出しあってその費用にした。井戸は10カ所完成し、今なお誓真釣井として称えられている。
さらに厳島は急峻な崖に囲まれて町ができ、道路には高低があり歩きにくかった。そこで、来遊する人たちを快く迎えることはできないといって、崖を削り市街地を整然とし、溝は石で覆った。道の上り下りは、海山の景色を見る人たちの眺望に奥行きを与え、また住んでいる人たちにはこの上なく便利になった。
広島藩の藩主は、嘉んで褒美を与えられ、また「芸備孝義録」に記載するように命じられた。
寛政12年8月6日亡くなられた。仏門には入られて35年、亡くなる前4日に広島の生家を訪ね、あと4日しか生きられないといって別れを告げられたが、みんな信じなかった。しかし、その日になると忽然と亡くなりみんな驚いた。また神泉寺には箱が3個あり、その中には葬具が備えてあった。
今年100年忌にあたり、町民が光明院に集まって追慕の法要を営んだが、みんな今日生活ができるのは、大徳の徳のおかげであると言い、後の世の人のために大徳の事業を記した碑を建て、誓真大徳頌徳碑とした。
明治31年歳次戊戌3月吉日 仙台 岡千仭撰文
昭和12年9月9日建之 内田晴耕書
写真は、誓真大徳頌徳碑・裏面碑文
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